<T 杜若>

<N 79>

<K 季四月>

<A ワキ>旅僧

<A シテ>杜若の精

<S 名著>

 

<P 186a>

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我此

間は都に候ひて。洛陽の名所旧跡のこり

なく一見仕りて候。又これより東国行脚

と心ざし候。道行「夕々の仮枕。/\。宿

はあまたにかはれども。同じ憂き寝の美

濃尾張。三河の国に着きにけり/\。

詞「急ぎ候ふ間。程なう三河の国に着き

て候。又これなる沢辺に杜若の今を盛と

見えて候。立ちより眺めばやと思ひ候。

 

<P 186b>

げにや光陰とゞまらず春過ぎ夏も来て。

草木心なしとは申せども。時を忘れぬ花

の色。かほよ花とも申すやらん。あら美

しの杜若やな。

シテ詞呼掛「なう/\御僧。何しにその沢には

休らひ給ひ候ふぞ。ワキ詞「これは諸国一見

の者にて候ふが。杜若のおもしろさに眺

め居て候。さてこゝをばいづくと申し

候ふぞ。シテ「これこそ三河の国八橋とて。

 

<P 186c>

杜若の名所にて候へ。さすがにこの杜若

は。名におふ花の名所なれば。色も一し

ほ濃紫のなべての花のゆかりとも。思ひ

なぞらへ給はずして。取りわき眺め給へ

かし。あら心なの旅人やな。ワキ詞「げにげ

に三河の国八橋の杜若は。古歌にもよま

れけるとなり。いづれの歌人の言の葉や

らん承りたくこそ候へ。シテ「伊勢物語に

いはく。こゝを八橋といひけるは。水行

く川の蜘蛛手なれば。橋を八つ渡せるな

り。其沢に杜若のいと面白く咲き乱れた

るを。ある人かきつばたといふ五文字を

句の上に置きて。旅の心をよめと言ひけ

れば。唐衣着つゝなれにし妻しあれば。

はる%\来ぬる旅をしぞ思ふ。これ在原

の業平の。此杜若をよみし歌なり。ワキ「あ

ら面白やさてはこの。東のはての国々ま

でも。業平は下り給ひけるか。シテ詞「こと

新しき問事かな。此八橋のこゝのみか。猶

 

<P 187a>

しも。心の奥ふかき名所々々の道すがら。

ワキ「国々ところは多けれども。とりわき

心の末かけて。シテ「思ひわたりし八橋の。

ワキ「三河の沢の杜若。シテ「はる%\

きぬる旅をしぞ。ワキ「思の色を世に残

して。シテ「主は昔になり平なれども。

ワキ「かたみの花は。シテ「今こゝに。

地歌「在原の。跡な隔てそ杜若。/\。沢

辺の水の浅からず。契りし人も八橋の蜘

蛛手に物ぞ思はるゝ。今とても旅人に。

昔を語る今日の暮やがて馴れぬる。心か

なやがて馴れぬる心かな。

シテ詞「いかに申すべき事の候。ワキ詞「何事

にて候ふぞ。シテ「見ぐるしく候へども。わ

らはが庵にて一夜を御明し候へ。ワキ「あ

らうれしややがて参り候ふべし。物着「。

シテ「なう/\此冠唐衣御覧候へ。ワキ「不

思議やな賎しき賎の臥処より。色もかゝ

やく衣を着。透額の冠を着し。これ見よ

 

<P 187c>

と承る。こはそも如何なる事にて候ふぞ。

シテ「これこそ此歌によまれたる唐衣。高

子の后の御衣にて候へ。又此冠は業平の。

豊の明の五節の舞の冠なれば。かたみの

冠唐衣。身に添へ持ちて候ふなり。

ワキ「冠唐衣は先々置きぬ。さて/\御身

は如何なる人ぞ。シテ「誠は我は杜若の精

なり。植ゑおきし昔の宿の杜若と。よみ

しも女の杜若に。なりし謂の言葉なり。

又業平は極楽の。歌舞の菩薩の化現なれ

ば。詠みおく和歌の言の葉までも。皆法

身説法の妙文なれば。草木までも露の恵

の。仏果の縁を弔ふなり。ワキ「これは末

世の奇特かな。正しき非情の草木に。言

葉をかはす法の声。シテ「仏事をなすや業

平の。昔男の舞の姿。ワキ「これぞ即ち歌

舞の菩薩の。シテ「仮の衆生となり平の。

ワキ「本地寂光の都を出でて。シテ「普く

済度。ワキ「利生の。シテ「道に。地次第「はる

 

<P 188a>

ばる来ぬる唐ころも。/\。着つゝや舞

を奏づらん。シテ「別れこし。跡の恨の唐

衣。地「袖を都に。返さばや。イロエ「。

シテクリ「そも/\この物語はいかなる人の何

事によつて。地「思の露の信夫山。忍びて

通ふ道芝の。始もなく終もなし。シテサシ「昔

男初冠して奈良の京。春日の里に知るよ

しして狩にいにけり。地「仁明天皇の御宇

かとよ。いともかしこき勅をうけて。大

内山の春がすみ。立つや弥生の初めつか

た。春日の祭の勅使として透額の冠を許

さる。シテ「君の恵の深き故。地「殿上にて

の元服の事。当時その例稀なる故に。初

冠とは申すとかや。

クセ「然れども世の中の。一度は栄え。一

度は。衰ふる理の誠なりける身のゆく

へ。住所求むとて。東の方に行く雲の。

伊勢や尾張の海面に立つ波を見て。いと

どしく過ぎにし方の恋しきに。羨ましく

 

<P 188b>

も。かへる浪かなとうち詠めゆけば信濃

なる。浅間の嶽なれや。くゆる煙の夕気

色。シテ「さてこそ信濃なる。浅間の嶽に

立つ煙。地「遠近人の。見やはとがめぬと

口ずさみ猶はる%\の旅衣三河の国に着

きしかば。こゝぞ名にある八橋の。沢辺

に匂ふ杜若。花紫のゆかりなれば。妻

しあるやと思ひぞ出づる都人。然るに此

物語。その品おほき事ながら。とりわき此

八橋や。三河の水の底ひなく。契りし人

人のかず/\に。名をかへ品をかへて。

人待つ女物病み玉すだれの。光も。乱れ

て飛ぶ蛍の。雲の上までいぬべくは。秋

風吹くと。仮にあらはれ衆生済度の我ぞ

とは知るや否や世の人の。シテ「暗きに行

かぬ有明の。地「光普き月やあらぬ。春

や昔の春ならぬ我が身ひとつは。もとの

身にして。本覚真如の身を分け陰陽の神

といはれしも。唯業平の事ぞかし。斯様に

 

<P 188c>

申す物がたり疑はせ給ふな旅人遥々来ぬ

る唐衣。着つゝや舞をかなづらん。

シテ「花前に蝶まふ。紛々なる雪。地「柳上

に鶯飛ぶ片々たる金。序ノ舞「。シテ「植ゑ

置きし。昔の宿の。かきつばた。地「色ば

かりこそ昔なりけれ。/\色ばかりこそ。

シテ「むかし男の名を留めて。花橘の。匂

うつる。菖蒲の鬘の。地「色はいづれ。似

たりや似たり。杜若花菖蒲。梢に鳴くは。

シテ「蝉の唐衣の。地「袖白妙の卯の花の

雪の。夜も白々と。明くる東雲の浅紫

の。杜若の。花も悟の。心開けて。すは

や今こそ草木国土。すはや今こそ。草木

国土。悉皆成仏の御法を得てこそ。失せ

にけれ。